悪人を殺すことは正しいのか?(マギレコ感想文)

悪人を葬る2人の魔法少女の姿を描いたマギレコのイベントストーリー 「LAST BIRD HOPE」がなかなか読み応えのあるストーリーだった。

…というか、「ソシャゲのイベントでよくそんな重い話を描こうと思ったな」と素直に感服した。

いやもしかしたら、私が知らないだけで他にもそのような例はあるのかもしれないが…。

「LAST BIRD HOPE」は、7年弱続いたマギレコの集大成的な物語と言っても過言ではないのだが、公式アーカイブにも残らないっぽいし、この物語が公式には後一ヶ月で消えてしまうのが非常に勿体ないと感じたので、その前に本作を読んだ筆者の所感を残す。

日本では死刑が認められていたり、死刑の無い国ではその場で犯人が射殺されていたりと、現実世界では「悪人を殺す事は正しい」と広く信じられている事が多いと思う。

フィクションの世界でも、それは同じと言える。

犯罪者と悪人を一括りにしてしまうのはいささか乱暴ではあるが、この記事では「犯罪者=悪人の一部」として話を進める。

(今は知らないが昔の)「名探偵コナン」では、被害者はなんだかんだと「アイツは悪い奴だ」的な理由をつけられては殺されていた。

恐らく、殺された被害者が善人だったら胸糞悪くてエンタメとして成立しづらくなるので、それを防ぐためなのだろう。

また、フィクションにおける悪人は必ずしも「人間」として出てくるとは限らないと筆者は考えている。

「名探偵コナン」では、殺されたのはあくまで悪人として描かれている場合が多かったが、それでも「人が人を殺す」ことに対する後味の悪さがつきまとう。

これを解消するにはどうするばいいのか? 簡単である。悪人を人ではなく、別の存在に置き換えればよいのだ。

その最も分かりやすい例が「葬送のフリーレン」に登場する魔族である。

本作に登場する魔族は「人を言葉で惑わす魔物」として定義され、「人間とは絶対に分かり合えない、忌むべき存在」として描かれている。

現実的に考えれば、人を言葉で惑わし、不利益をもたらすのは人間の詐欺師以外にあり得ない。

つまり、フリーレンに描かれている「魔族」というのは、現実の概念に置き換えれば「詐欺師≒悪人」なのである。

では何故、「葬送のフリーレン」では、悪人を人間ではなく魔族という架空の存在として描くのだろうか。

その理由は、本作が「ハイファンタジーだから」というのもあるだろうが、それだけではないだろう。ファンタジー世界に悪人がいても全く不自然ではないからだ。

もっと大きな理由は、主人公が悪人を殺す事に対する罪悪感や、それを見た視聴者or読者に後味の悪さを感じさせないためだろう。

「名探偵コナン」を見て「後味が悪い」と感じた人はいても、「葬送のフリーレン」でフリーレン達が魔族を殺す様を見て「後味が悪い」と感じる人はほぼいないだろう。彼らは人間ではないのだから…。

こんな事を書くと真面目にフリーレンの考察を行っている人からは怒られてしまいそうな気もするが、本作は「悪人が人間以外の存在に置き換えられる例」として、最も分かりやすいから紹介したのであって、「鬼滅の刃」に登場する鬼達もこのパターンだと思っている。

フィクション作品において悪人は、怪物に加工されて登場する事が珍しくないのだ。

このように、作中では「人間」と定義されていなくても、主人公達から「倒すべき悪」と認識されている存在をこの記事では「悪人」と定義して話を進める。

マギレコの「LAST BIRD HOPE」では、悪人を葬る存在として、二人の魔法少女が登場する。一人はシィ、もう一人はユゥだ。

シィはユゥに「悪人リスト」を渡して彼女にターゲットを知らせる。悪人を直接殺しているのはユゥだが、それを指示しているのはシィである。

…シィはともかく、ユゥの方は化け物染みた姿をしている。

「角の生えた怪人」という点では「鬼滅の刃」に登場する鬼達と大して変わらないだろう。

「鬼滅の刃」の登場人物であれば「鬼(=殺される側の悪人)」として描かれそうなユゥではあるが、マギレコでは「悪人を殺す魔法少女」として登場する。

「悪人を殺す」者が現れる場合、それらはたいてい正義のヒーローであり、悪人は醜悪な姿で、ヒーローは美しい姿で描かれている場合が多い。「美少女戦士セーラームーン」はタイトルからして「美少女」と主張している。中には美形な悪役もいるが、ヒーローの側が怪物じみた姿で登場する例はあまりないだろう。

ユゥ自身はーー恐らく多くの正義の味方達がそうであるようにーーー「悪い人を殺す事は正しい」と無邪気に信じているのだが、製作側は「彼女は恐ろしい怪物だ」とでも言いたげである。(厳密に言えば「殺す」ではなく、「なくす」と作中ではマイルドな表現がされているのだが)

彼女たちの定義する「悪い人」とは「誰かを苦しめる者」である。「人を苦しめるのは悪か」と聞かれたら多くの人が「YES」と答えるだろうし、「人を苦しめる人は悪人か」と聞かれればやはり「YES」と答えるだろう。筆者もそう答える。

しかし、彼女たちの「悪人リスト」には、育児放棄をしていた百江なぎさの母親も含まれていた。なぎさは母親から愛される事をのぞんでいたが、「娘を苦しめた悪人」としてユゥに殺されてしまう。

結果、なぎさは母親から苦しめられることもなくなったが、同時に「母親から愛される」という本当に渇望していた願いも永遠に叶わなくなってしまった。

果たして彼女たちは本当に「正しいこと」をしたのだろうか?

you tubeでは「胸糞悪い犯罪者」たちを紹介する動画が多数存在する。そしてそれらのコメント欄にはほぼ必ず「胸糞悪い犯罪者はさっさと死刑ににしろ!」的なコメントが散見される。ーーまるで「魔族を見かけたら即殺せ!!」と警鐘を鳴らすフリーレンのようである(だからこそ、「フリーレン」は多くの人の支持を得て人気作になったのだろう)

何故私たちはここまで犯罪者が、「悪人」が憎いのだろうか。

その理由には「凶悪な犯罪者を社会に野放しにしていたら、また同じことをして今度は自分たちが被害にあうかもしれない」という警戒心もあるだろう。しかし、「犯罪の再発防止」が目的であるならば、犯罪者を一生牢屋に閉じ込めておけばよいのであって、必ずしも殺す必要はないのではないか?

(「税金で犯罪者を養うのが気に入らない!」という声もあるが、現実には懲役刑よりも死刑囚の収容の方が金が掛かっているのである)

日本には終身刑がないので終身刑を導入すればいいだろう。しかし、多くの人は犯罪者に対して「終身刑」ではなく「死刑」を望む。

その心理は、フリーレンが魔族を嫌悪するのと同じなのではないだろうか。

つまり、「犯罪者(≒悪人)とは、自分たちとは利害が絶対に一致しない、自分たちから隔絶した異質な存在」だと思っているからではないだろうか。

(人は、犬や猫など、表情があり、感情が理解できる動物を殺す事には躊躇いを覚える一方で、ゴキブリやスズメバチ等、表情も無ければ利害も一致しない虫を殺すことに後ろめたい感情を抱くことはほぼない)

筆者も自分と利害が一致しない相手と「理解しあう」のは非常に難しいと思うし、理解する必要もないのかもしれない。

しかしだからと言って、「理解できない、気に入らない相手は殺してもいい」という論調に同調することは危険だとも思う。なぜなら自分にとって理解できない相手というのは、相手から見たら自分の方が「理解できない存在」だからであり、「理解できない相手から殺される」「殺された事を正当化される」というリスクを背負うことになるからだ。

そして、「人殺しの正当化」の行きつく果てが「戦争」である。

こう書くと「大袈裟だ」と感じるかもしれないが、世界中の人達が「どんな事情があっても決して人を殺してはならない」と強く信じている世界であれば戦争なんて起きないだろうし、現在の世界事情を見れば「戦争」が決して過去のものではない事が理解できるだろう。

「マギレコ」は「魔法少女まどか☆マギカ」の外伝作品であり、本家まどマギやマギレコに登場する悪人は魔女である。

魔女は当初「人間に危害を及ぼす、得体の知れない怪物」として登場する。

だからこそ、魔法少女達はキュゥべぇに促されるまま、何の躊躇もなく魔女を次々と殺戮して回るのだが、物語の途中で大変な事実が発覚する。

魔女の正体は、絶望に沈んだ「魔法少女の成れの果て」だと判明するのである。

つまり、今まで殺して来た「魔女」達は、決して「自分達から隔絶された異質な存在」などではなく、「あくまで自分達と地続きの存在である」という事を知るのである。

ここから、「魔女は倒すべき存在ではなく、救うべき存在」としても描かれるようになり、最終的にヒロインのまどかは、魔女を救う事で、世界そのものをも救ったのである。

人は、「自分達とは完全に異質な存在」だと認識した相手にはどこまでも冷酷に振る舞える一方、自分達と共通点を見いだせる相手の事は可能な限り助けたがる生き物なのかもしれない。

※「ジョンさん」とは、黒江の目の前でユゥに殺されてしまった「悪人(犯罪者)」である。

このように、悪人(魔女)を「異質な怪物」から「救うべき対象」として描いたまどマギの外伝だからなのか、実行役のユゥが「悪人を殺すのは正しい」と信じている一方、指示役のシィは「相手が悪人でも、人殺しはよいことでない」と認識している。

シィは、彼女の母親が魔法少女になる時に叶えた「人の心が分かる子になってほしい」という願い事の副作用で、毎晩悪人に虐げられる誰かの夢を見ていた。

シィが夢で見た人物をリストに記し、ユゥが対象の人物を殺すと、シィはもうその悪人の夢をみなくなるのである(その代わり、別の悪人の夢を見るのだが…)

悪人を殺せば、その事で救われる誰かがいるのも事実なのだろう。

その事は決して誰にも咎められる事ではない。

それ故なのか、フィクションの世界では「正義のヒーロー」は美しく、悪人は外見or中身が「恐ろしい怪物」として描かれる事が多い。

しかし、「LAST BIRD HOPE」では「悪人を葬る正義のヒーロー」であるはずのユゥの方が怪物のような姿で描かれ、指示役のシィも「自分は罪を重ねている」と思っているのである。

これは、(筆者の知る例では)あまりなかった事なので驚いた。

さらに凄いのは、そんな、「正義の味方のアンチテーゼ」とも解釈できるユゥを演じているのが、あの「セーラームーン」を演じた三石琴乃なのだ。

イベントストーリーには声がつかないのが残念だが、かつて社会現象を巻き起こした「愛と正義の美少女戦士」と同じ声優さんに「悪人を殺す狂気の魔法少女」を演じさせるマギレコ運営さんのセンスが好き。

まるで「愛と正義の美しいヒーロー」と、「狂気の怪物」は紙一重と言わんばかりである。

シィが出した結論は「正しい事を行いながら罪を重ねる」であった。

彼女は「中身がカラッポ」だと分かったユゥを殺すと(結局殺すんかいっ!!)今後は自分だけが罪を背負うとしてどこかへ行ってしまうのだった。

世の中のエンタメが、「悪人を殺す者は美しい正義のヒーロー」として描かれているのは、その方が見ている方は気持ちイイからである。

しかし、「悪人を殺せば救われる誰かがいる」一方で、「人を殺す事は本質的に罪であり、それを背負う者がいる」という事を描いた本作は非常に誠実な物語だったと思う。

それでいて、説教くさくなく、ちゃんとエンタメとして成立しているのが凄いという…。

そんな超力作の本作だが、残念ながら公式アーカイブには残らないっぽい。

…他作品の例も交えつつ、この物語を紹介したが、正直、筆者のこの考察や解釈があっているのかどうかも分からない。もしかしたら彼女たちの「物語」を、自分に都合よくゆがめてよんでしまっているのかもしれない…。だから、もし、7/31の14:59までに間に合うのであれば、マギレコをダウンロードして、アーカイブのストーリーから「LAST BARD HOPE」を読んでみてほしいと思う(ちなみに、全部読むのに1時間前後かかると思います…)

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