漫画家志望者だけどルックバックが全然刺さらなかった話

「クリエイターあるある」「感動の傑作」との呼び声が高い映画「ルックバック」を見ました。

出典:https://lookback-anime.com/

…筆者は漫画家志望者ですが、この映画は全然刺さりませんでした。嫌みや皮肉ではなく、率直な疑問として「クリエイターあるあるで感動した!」と仰っている方たちに「どこら辺がどうあるあるだったんですか⁉」と聞いてみたいです💧

原作は藤本タツキ先生による読み切り漫画で掲載誌はジャンプ+です。

で、何故自分には刺さらなかったのが筆者なりに考えてみたのですが、その思いを言語化した結果

「この映画はどこまでも“才能、金、親、学校環境、そのすべてに恵まれた者たちの物語”でしかなかったんだ」という事でした。それについて、以下詳しく説明します。

あらすじ

小学生4年生の少女、藤本は絵がうまく、学級新聞で4コマ漫画を載せて他の子たちを楽しませて、「私はこの学年で一番絵がうまい」天狗になっていた。

ある日、学級新聞の4コマに「不登校の京本という子の4コマも隣に載せて欲しい」と先生から頼まれ、しぶしぶ承諾すると、京本の圧倒的な画力(描かれているのは漫画とは呼べない、背景の羅列に過ぎなかったのだが)に圧倒され、「4年生で私より絵がうまい子がいるなんで許せない!」と嫉妬心を募らせ、その日から猛烈に絵を練習するも、6年生になったある日「自分はどんなに努力しても京本の画力には及ばない」と悟り、漫画を描くことをやめてしまう。姉からも「絵なんか描いてないで空手でもやれば?」と言われる。

卒業式の日、先生から「京本に卒業証書を届けて欲しい」と頼まれ、しぶしぶ承諾した藤本は、京本の家ではじめて京本とであう。すると彼女は自分のことを「先生!」と呼び、「ずっとファンでした! サインください!」とまでせがんでくる。自分がずっとライバル視していた京本が実は自分のファンだったことを知った藤本は雨の中小躍りしながら帰宅するほど浮かれていた。

何故漫画を描くのをやめてしまったのかと京本に効かれた藤本は「あなたの絵がうますぎて自分では敵わないと思ったからよ」などと本当の事は決して言わず「漫画賞に出すために、つまり、次のステップに進むために一時的にやめたんだよね~」とウソをつき、実際に漫画賞に投稿するための作品を描き始める。背景の作画は京本に依頼し、中学生になった二人は1年かけて1本の漫画を仕上げて持ち込み、集英社(それも少年ジャンプの編集部である)に持ち込むと絶賛され、準入選を果たす。

賞金を手にした二人はますます結束を強め、高校生の間に二人は17本もの読み切りを掲載し、高校卒業とともに連載を持ちかけられる。

のだが、京本は背景美術を学ぶために「大学に行きたい。だから連載は手伝えない」と藤本に打ち明ける。なんとか彼女を引き留めたい藤本は元々の口の悪さが災いして、そんな彼女を「美大になんか行ったって就職先は見つからないし意味ない」と罵ってしまう。

結局京本は美大に行き、藤本は漫画の連載を始める。

藤本は京本に代わる背景のアシスタントが見つからず、イライラしていた矢先、京本の通う山形の美術大学に暴漢がおしかけ、無差別殺人を起こし、京本がその犠牲者の一人になったことを知ってしまう。

悲しみにくれる藤本は連載を休止し、京本の部屋を訪れ、彼女が美大に行った後もアンケートを出して自分の漫画を応援していてくれたことを知る。

その後、小学校の卒業式で藤本と京本が出会わなかった並行世界(藤本が悲しみから逃れるために妄想したifの世界ではないかという見方もあるが、筆者はこの解釈をしている)の展開が描かれる。

並行世界の京本は藤本と出会わずとも山形の美術大学に行き、そこで休んでいたところを暴漢に襲われる…のだが、漫画家にならず、空手を極めていたこの世界の藤本によって成敗される。

京本が「後日改めてお礼をさせてほしい」と連絡先をの交換をねだったことがきっかけで、自分を助けてくれた少女が小学生の頃憧れていた「藤本先生」だったことに気づく。

そんな藤本は京本に「連載が決まったらアシスタントになってね!」と頼むのだった。

元の世界に視点が戻ると、並行世界の京本が描いたと思われる4コマ漫画が出て来た。そこには藤本によって救われた京本が描かれていたのだ。

京本の部屋をあける藤本。だが、やはりそこに京本の姿はない。

並行世界の京本は自分によって救われたかもしれない。

しかし、自分と漫画制作をともにしたこの世界の、自分にとってのかけがえのない藤本はもうここにはいない…。

その悲しみを乗り換え、志半ばで散っていった京本の想いを引き継ぎ、藤本は漫画の連載を再開するのだった…。

感想

筆者は原作未読なのであくまで映画のみの感想ですが、良かったのは主人公の口の悪さが妙にリアルで、「とんとん拍子でジャンプの連載にこぎつける天才漫画家」という、現実にはごく一握りしかいないであろう天才中の天才であるにも関わらず、すごく身近な存在に感じられらところですね。

恐らくこの映画を見た人の99%は気にしていないことだと思うのですが、この映画を見て筆者が気になったのは「藤本も京本も金持ちなんだろうな」といことです。何故そう思ったかというと、何故そう思ったかたというと、恐らく「藤本と京本の努力を視聴者に刺客で分かりやすく表現するための記号」として描かれたのだろうとは思いますが、彼女たちが所持していた大量のスケッチブックです。

カラーイラストを描きたい場合はともかく、漫画用の白黒の絵が練習したいのであれば、スケッチブックよりも安価な自由帳やクロッキー調で十分です。金のない小学生ならなおさら「スケッチブックより自由帳」という発想になると思うのは筆者だけ…なのでしょうか? まぁ一番安いのはコピー用紙ですが。

藤本が小学生の頃から自由帳やクロッキー帳より高価なスケッチブックや恐らく数千円単位の値が張るだろう作画資料を何冊も買える(買ってもらえる)のもすごいし、もっとヤバいのは京本です。

京本は不登校であるが故に、学校に行かない時間もずっと絵の練習をしていて大量のスケッチブックもある…という設定なのですが、現実的に考えて、学校に行かず背景の絵ばかり描いている我が子に対して望まれるがままスケッチブックを買い与えてくれる親はいるんでしょうか?

筆者は「学校は悪。子供があんなところに行きたがらないのは至極当然」だと考えていますが、この社会はまだまだ「学校ありきの社会システム」になっているのも実情であり、「我が子が不登校」ともなれば多くの親は焦って無理やりにでも学校に行かせようとするでしょうし、「絵ばかり描いていないで勉強しろ!」とか「学校に行かないならもう絵なんか描くな!」とか「学校に行くまでまでお絵描きは禁止だ‼」とか言ってスケッチブックをとりあげそうなものですが。まぁ、本作はあくまで「藤本の物語」なので京本の背景は気にしても仕方がないのかもしれませんが、「不登校で絵ばかり描いている娘」をしかる描写がなく、彼女の才能を信じてスケッチブックを買い与えてくれた京本の両親は、いわゆる親ガチャ大当たりなのかもしれません。

山形から東京に行くのに(今の運賃で)片道6000円以上(往復12000円)かかりますが、中学生のうちからそんだけの交通費を払えるのもすごい。筆者が中学生だったら1年分のお年玉が吹っ飛ぶ金額です。しかもこれはあくまで一人分の金額なので、二人だったら24000円以上かかります。

私が中学生だったらそんな大金払って漫画を出版社に持ち込む勇気はないです。そんな金があったらゲームを買います(だから今も筆者は商業漫画家になれていないのでしょうが💧)。

ついでに言うと筆者が中学生だった頃はまだインターネットが普及しはじめて間もない時代だったこともあり、家にはネット環境がなく、漫画の原稿用紙を売っているお店の場所を知ったのも中学3年生になってからのことでした。

藤本の挫折? どこが!?

作中で描かれる藤本の挫折も「親友で漫画家としてのパートナーでもあった京本を、殺人というこの世で最も理不尽な方法で失う」という事以外、全然大したことがないんですよね(そのインパクトを増すためにあえてそうしたのかもしれませんが)。

学級新聞に漫画を載せるのをやめたのも「京本の絵には敵わないから」と自分で勝手にあきらめたからだし、お友達から「中学生にもなって絵なんか描いていたらオタクだと思われれて気持ち悪いと思われちゃうよ?」とチクリとされるも、それは「愛がある故の忠告」みたいなもので、心無い同級生から「オタクきめぇえw」と罵られていじめを受けたわけでもないし、同級生から「京本の絵と比べると藤本の絵ってフツーだな」と言われはするも「下手」と言われたわけでもないし、大金払って出版社に持ち込みにいけばダメ出しされることもなく、描いた漫画が即認められ、それ以上のリターン(賞金)が入ってくるわで…。

この映画のどこが「クリエイターあるあるでクリエイターに刺さる」内容なのか教えて欲しいです。順風満帆すぎるやろ!(まぁ、実際そういう人もいなくはないのかもしれませんが)

筆者が小・中学生の頃は絵がうまい子たちも同学年にたくさんいたけれども、当時筆者が読んでいた漫画雑誌には「漫画は絵よりストーリーの方が大事だ」ということが載っていたので、自分より絵がうまい子が周りにいてもそんなに大きく凹んだことありませんでした(今は考えを少し改め、やっぱり絵も大事だと思ったけどね)。

さすがに同級生から絵が下手と言われたことは筆者もなかったと記憶していますが、中学生の頃、学級新聞係なるものが発足されたので、筆者はそれになって、学級新聞に4コマを描いたのですが、担任の先生に難癖をつけられて学級新聞ごと没にされてしまったという苦い思い出はあります。

どんな内容だったのかというと、アンパンマンのパロディだったのですが、

  1. 困っている人が助けを呼ぶ
  2. 助けを聞いてアンパンマンが現れる
  3. …のだが、その顔はみんなの知っている柔和な顔のアンパンマンではなく、誰も見たことがないような強面だった
  4. 救いを求めた方が思わず逃げ、それを見たアンパンマン(?)らしき人物が「自分で呼んどいて逃げるな!」と怒る

…というものでした。

まぁなんで中学生にもなって「アンパンマンのパロディを描いて学級新聞に載せようと思ったんだよ」という話ですが、これを読んだ当時仲良かった子は「面白いね」と言ってくれたと思います。しかしこれを見て先生は「これ、誰かをネタにして描いたわけじゃないよね?」と筆者に聞いてきたので、私は一瞬「?」と思いつつも「違いますよ」と否定したのですが…。

結局私の言う事は信じてもらえず、「誰かを元に描いているといけないから」という、今考えてもよくわからない理由で学級新聞ごと没にされてしまったんですよね(^^;)

少し考えれば(考えなくても)アンパンマンのパロディなのだから、現実にいる誰かをネタにして傷つけようとしたわけではないということが分かりそうなものですけどねぇ💧強面キャラがいけなかったんでしょうか?

藤本にはこのように、「外からの理不尽な圧力によって自分の漫画が没になってしまう」という挫折が描かれることが一度もないんですよね。そもそも彼女が小学生の時に漫画を描いていたのは「漫画が好きだから」ではなく「承認欲求のため」ですし、自分より絵がうまい人を見て凹む気持ち自体は理解できますが、「京本の絵には敵わないから」という理由だけで漫画を描くのをやめてしまうのは、挫折と呼ぶには少し大げさではないかと思います。

藤本がこのようなキャラになっている理由は恐らく、原作者の藤本タツキ先生自身が、作中の藤本と同じように割ととんとん拍子で漫画家として成功された方だからなのだろうなと思います。

本作の元ネタは京ア二事件!?

志半ばの京本が巻き込まれた事件は、作中では色々差別化されているものの、直感的に「京アニで起こった惨劇」を連想させるものになっています。

並行世界で暴漢を倒し、京本を救った藤本の姿は、「青葉被告を倒して京アニを救いたい」という原作者の藤本タツキ先生自身の怒りと悲しみの体現なのかもしれません。

…しかし、並行世界の京本を救っても自分の世界の京本は帰ってこなかったように…いくら作品の中で悪人を倒したところで現実に起こってしまったあの事件をなかった事にはできない、創作の無力さを痛感しているのもまた藤本タツキ先生であろうことが物語の後半から伝わってきます。

本作が本当に京アニ事件を元ネタにしたかどうかは分かりませんが、現実に起こった事件を元ネタに作品を描くことが必ずしも悪いことだとは筆者は思いません。しかし、それを「商業WEB雑誌で載せることが許された」のはやっぱり作者が「チェンソーマン」というヒット作を世に出している「成功した漫画家だから」というのはあると思います。

そもそもクリエイターネタは商業ウケしにくいジャンルだそうですので、本作が読み切り掲載から映画化までこじつたのは原作者の藤本タツキ先生のネームバリューによるところが大きいと分析している人もいます。

つまり、この映画はどこまでも成功者の、成功者による、成功者のための映画だったのかもしれません。

最後に

藤本や京本のように「私もゲームばかりしていないで小学生の頃から絵の勉強をちゃんとしておけばよかった」と少し反省はしました。まぁ当時自分が好きだった漫画は「ぷよぷよ」や「ポケモン」、「ゼルダの伝説」といった「ゲーム原作の漫画」が多かったので、ゲームありきで漫画を楽しんでいた面も決して否定はできないのですが…💧

本当はこんな記事書いている暇があるのなら自分の創作をさっさと進めた方がよいのですが、見終わった後になんだかモヤモヤして、このモヤモヤを言語化するまでは創作活動をしても気が散りそうだったからです。その思いを吐き出せる、自分のブログを持っていて良かったです。

この映画を見てしまった私にできることはただ一つ、世の中の人に「面白い」と言わしめる漫画家になるという傲慢な野心を燃やしてこれからも創作活動を続ける事です。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です