カンニング自殺問題について思う事

厳しい指導と人格否定は違う

清風高校でカンニングをした男子生徒が「卑怯者」と指導され自殺し、両親が学校を訴えた件。

そもそもこの高校は当初より厳しい学校として知られており、学校側も「厳しい指導をする」という同意書を書かせた上で入学させているそうなので、同意したうえで我が子を通わせて死なせてしまった親の責任によるところが大きいとは思うが、学校に全く問題がなかったかといえば、そんなことはないと思う。

学校側を擁護している人もいるが、こういう人達は「厳しい指導と人格否定は違う」ということが分かっていないか、あるいは「厳しい指導をするとうたっている学校であれば不正を犯した生徒に対して人格攻撃をしてもよい」と勘違いしていると思う。

「カンニングは不正行為であり、卑怯な行いをしたものは厳しい罰を負う」という指導は必要だ。しかし、「卑怯者」という人格攻撃をしたのはよくないというか、明らかにこの学校の落ち度だろう。「同じ指導を受けて死ななかった子もいた」という話だが、人間のメンタルは全員ちがうので、今まで他の生徒が死ななかったからといってこの子が死ぬ理由に値しないかといえば、そんなことはないだろう。

ではどうするべきだったのか。「不正行為をしたら、それ以上に自分が損をするのだ」ということを教えるために、罰として写経や謹慎処分、各科目0点などは仕方がないにしても、「カンニングをするものは卑怯者」と生徒自身に言わせてはいけなかった。

学校側が生徒に「自分のことを卑怯者」と言わせるのは正しい指導だとは言えない。

中には死んだ生徒のことを「カンニングをするのは卑怯者だし死んで逃げるのも卑怯」と非難している人たちもいたが、自身の行いを悔いて亡くなった故人に石を投げるその行為の方が恥ずべきだろうし、恐ろしいと私は思う。

自ら死を選ぶくらいであるから、この生徒にとって「卑怯者」というのは私たちが想像している以上の「絶対悪」だという風に洗脳されてしまったのだろう。

カンニングという行為自体は不正であり、糾弾されるべき卑怯である。しかし、人格を攻撃するのではなく、「卑怯な手段」それ自体を憎み、生徒を正しい道に連れ戻すことが正しい「指導」ではないのか。厳しい指導をうたっているからといって、人格攻撃をした学校が無罪放免、というのも、なんだかおかしな話である。

もう一度いうが、筆者は「厳しい指導」それ自体を否定しているわけではない。中には本当に大人をなめくさっているような学生も世の中にはいるので、そういう子には「厳しい指導」が必要な場合もあるだろう。だが、どんな状況においても、「人格否定」は許されるべきではない。

もう一度いう。厳しい指導と人格攻撃はイコールではない。不正を犯した者には相応の罰を与えてしかるべきだが、それを口実に何をしても許されるというわけではない。

そのことを、分かっていない人が当の清風高校含めて分かっていない人が世の中には多いのではないだろうか。

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