しん次元!クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦とべとべ手巻き寿司ネタバレ感想
日本の衰退を象徴する野原一家
「この国に未来はない」なんて、大人の妄想だゾ。
がこの映画のキャッチコピーの一つですが、30年に及ぶ悪政とそれを支持してきた右な人達によって衰退の一途を辿り、現在進行系で生活が苦しくなっているのは事実でしょう。
そしてそんな「30年に及ぶ日本国の衰退」を象徴しているのが他でもない野原一家という皮肉があります。
30年前当時は「平凡な一家庭」に過ぎなかった野原一家が、今や「一握りの勝ち組」になってしまいました。
みさえは専業主婦ですが、今時「結婚したら専業主婦になりたい」などという女性と結婚したいと思える(自分だけの稼ぎで妻と子供二人とペットを養い、マイホームとマイカー持ちの生活が成り立つ)男性がどのくらいいるのでしょうか?
そもそも結婚自体、「お金がないからできない」という人も少なくありません。
悲しくも日本の衰退を象徴するキャラクターになってしまったしんちゃんに「この国に未来はないなんて大人の妄想だゾ」とか言われても残念ながら説得力はありません。
しんちゃんは孤独な充と観客を救えるか?
キャッチコピーの時点できな臭さが漂っていた「本作」ですが、公開後にネットで飛び交った評価も割と否定的な意見が多く、「…パラノーマンみたいな内容だったらどうしよう。いやさすがにパラノーマンより酷いということはないか」と若干心配になりました。
「パラノーマン」とはアメリカ発のキッズ向けアニメ映画なのですが、脚本がとにかく酷いのです。
「つまらない」とかいう次元の話ではなく、いじめる側が自分達の加害性を正当化し、被害者(いじめられる側)に上から目線で説教をかます、その説教も自分達ではなく、主人公を利用して間接的に行うという、どこを切り取っても卑怯で最低な倫理観の脚本です。これを書いた脚本家も、OKした人達も頭がおかしいというか、「彼(女)らは恐らくいじめる側の人間で、自分達の加害性を正当化したくて仕方ないんだなろうな」と恐ろしく思います。
「超能力大決戦とべとべ手巻き寿司」の中盤では本作のゲストキャラである充くんの記憶の世界に迷い込んだしんちゃんが彼に寄り添い、いじめっこ達から彼を庇おうとする描写があり、これも賛否割れているようですが、パラノーマンという最低駄作の脚本映画を知っている筆者には、良い展開だったと思います。
パラノーマンの主人公、ノーマンは魔女狩り(冤罪)で殺され亡霊と化した少女に、「キミはみんなから嫌われていたから殺されたんだ! そんな君がみんなに復讐するなんて間違ってる!!」というしょうもない説教(意訳)をかますクソガキなのでね。「復讐なんて間違ってる」というセリフは被害者が言うのならともかく、加害者が言うのは「自分は他人をいじめたいけど、復讐はされたくない」と言っているのと同じだからです。そして実際、いじめは多くの場合、「複数人対一人」という構図で反撃してこなさそうな相手を標的にして行われるものなのです。
充くんはネグレクトにあい、同世代の子供達からもいじめられるという境遇にいる少年です。ノーマンならここで「みんなから嫌われているキミが悪い。反撃なんてやめろ」とクソ説教をかますのでしょうが、しんちゃんは充くんに寄り添い、彼とともにいじめっこ達と戦ってくれました。天使のようでしたね。ノーマンはしんちゃんの爪の垢でも煎じて飲めばいいのに。
現実にはノーマンのようなクソガキはいても、しんちゃんみたいに天使な子はなかなかいないでしょうし、作中でも彼が救ったのは「過去の現実世界の充くん」ではなく、あくまで「記憶の世界(=仮想現実)の充くん」です。
しかしそれでいいと思います。しんちゃんはあくまで架空の存在。観客に辛い事があっても、彼が直接観客を助けることはできません。しかし、「漫画やアニメを通じて、オラはいつでもキミの側にいるゾ」という、あれはそういう描写なのだと思います。
そしてしんちゃんはノーマンとかいうクソガキと違っていじめをする多数派側ではなく、いじめられて苦しんでいる少数派側の味方なのです。
記憶の世界でいじめっこ達と戦う充くんとしんちゃんをひろしやみさえ達大人が応援するムーヴがありましたが、あれは悪くなかったと思います。
何故頑張らないといけないのか、何に対して頑張らなければならないのかが明らかだったからです。
何より、彼らが応援しているのがいじめる側ではなく、いじめに立ち向かう側だったからです。
パラノーマンの脚本家とついでにかつての私の担任よ、キミたちには理解できないだろうが、「みんなは嫌われ者を一方的に加害してもよいが、その逆は許さない」という理屈は間違っているゾ。寄り添い助けるべきは「加害性をこじらせて標的を探しているみんな」ではなく、「みんなから標的にされ苦しんでいる側」だゾ。そして、しんちゃんはそれを実践してくれたゾ。
しんちゃんが記憶の世界で充くんを助けるところまでは良い映画でした。問題はその後です。
ひろしよ、その説教は的外れだゾ
しんちゃんが充くんを助けたのは感動的でした。しかし、今作のヒロシはアカンです。「良いこと」を言おうとして完全に滑ってます。
まず、「この国の未来は明るくないかもしれない」「頑張れって働けば報われる時代は終わった」と、そういう話をしてきたのに、充くんにかます説教が「自分以外のもののために頑張れ」。
はあ…。充くんは決して頑張ってこなかったわけではなく、「底辺」だとバカにされても推しのアイドルのために働いて頑張って来た人です。
それじゃダメなん?💧
ヒロシのいう「自分以外のもの」とはつまり「家族」の事なんだと思います。そりゃ、今やヒロシは一握りの勝ち組だもん。家族のために働けて幸せでしょうが、充くんも観客も、頑張ったところでヒロシほど豊かな生活を送れる人の方が少ないかもしれません。何故なら、30年に及ぶ悪政で日本は衰退し続けているからです。
社会全体の問題を個人の問題にすり替えて「頑張れ」と言ったところで何も解決しません。マクロにはミクロでは対抗できないのです。
ここのところを理解せず、「ただ頑張ればいい」と、脚本も努めた大根監督はそうお考えなのでしょうか…?
そもそも論、充くんは作中で犯罪をおかしてしまっているので、日本以前に彼の未来が明るくありません💧そんな彼に「自分以外のもののために頑張れ」というのはあまりに酷ではないでしょうか?
何故社会風刺を取り入れながらこんなお粗末なラストになってしまったのかといえば、30年に及ぶ(そして現在進行系で続く…)日本の衰退を大根監督個人の力(脚本)で解決できるはずもないからでしょう。
国民的人気アニメ「クレヨンしんちゃん」初の3D化作品ということで、観客全員を感動させようと背伸びした結果、滑ってしまった感が否めないと感じます。
「日本の未来は明るくない」それは事実でしょうし、作中で解決できる問題でもないので、無理に取り入れず、エンタメに特化したほうが良かったのかもしれません。
3D映像も賛否割れていましたが、筆者はしん鮮でかわいくて良かったと思います。
まとめ
3Dになったしんちゃん達はしん鮮でかわいくて良し。
居場所の無い充くんに寄り添い、助けようとしたしんちゃんは天使。
ひろしの説教が的外れ過ぎて辛い…。
2023年現在となってはひろしすら平成生まれであり、充ともほぼ同年代なんですよね…。
ひろしの説教は完全に上から目線です。
日本の衰退に打ちひしがれながら、もがいて生きているだけでも頑張っているというのに。
充は幼稚園に立て籠った際に「これからの大人は自分が生きるのに精一杯で下の年代の事なんか考えてる余裕もない」と嘆いていたのですから
それに対して「誰かの為に頑張れ」なんて言っても話が平行になってるだけだと思いますね。
「この国に未来はない」ことに反論したかった訳ではなく、むしろそれを強調したかったのではないかと思えます。
せめてクレしん映画の中だけでも、そういう事には目を向けず夢の世界を観たかった気はします。
イクリプスさん
こんにちは。コメントありがとうございます。
イクリプスさんも今年のクレしん映画をご覧になったんですね。
>日本の衰退に打ちひしがれながら、もがいて生きているだけでも頑張っているというのに。
ですよねー💧
初の3Dに社会風刺と志は高かったと思うのですが、最後の締め(ひろしの説教)が本当に残念な作品でした。
「頑張ったところでどうにもならない」という現実を描くわけにもいかず、「頑張れ」というしかなかったのかなという印象です。
故:臼井儀人さんも、連載開始当時は「平凡な家庭」として設定したつもりの野原一家が、30年後には「一握りの勝ち組」になってしまうほど日本が没落するとは思いもしなかったでしょうね💧