セーラースターズは何が凄かったのか(セーラームーンCosmos感想2)
原作とCosmosに足りなかったもの
「うさぎの愛で銀河の全てを救う」
原作第5期とCosmos、旧作アニメの「スターズ編」だと恐らくやりたかった事は一緒なのですが、その説得力には雲泥の差があります。
どうも、「セーラームーンCosmos後編」が残念過ぎたので、「セーラースターズ」を再視聴する事で心の傷を癒やしている筆者です・・・(前回も言いましたが、よろしくなかったのは原作のストーリーであって、監督はむしろ頑張ってくれたと思います)。
「セーラームーン」シリーズで最もストーリーが面白いのは無印です。ここがあったからこそ、後に4年続くアニメ、そして今日まで世界中で続く人気があります。でも世界観が一番好きなのは「セーラースターズ」です。
「セーラースターズ」はそもそもタイトルからして「セーラー“ムーン”」ではなく、星の複数形になっています。厳密に言うと「美少女戦士セーラームーンセーラースターズ」が正式名称なのですが、タイトルロゴを見てもらえば分かるとおり、重要なのは「ムーン」ではなく「スターズ(たくさんの星達)」なんですよね。
「セーラースターズ」の世界感はSS編までのセーラームーンとは一線を画します。
「勧善懲悪のヒーロー」と言えば誰もが思い浮かべるのが、悪役より強い力で敵を倒す主人公の姿だと思いますし、「セーラームーン」も無印からSS編までは敵を倒す描写がありました。
しかしこのスターズ編、セーラームーンは敵と戦いこそすれ、誰も殺してもいないんですよね。
・・・スターズ編を見たことがなかったり内容を忘れたりしている人には何を言っているか分からないかもしれませんが、セーラームーンは毎回、スターシードを身体から抜き取られ、濁ってファージ(怪人)化した人たちを仲間の力を借りて浄化する、という流れです。だから倒していません。
「スターシード」は「スターズ編」のキーアイテムで、セーラー戦士や人間達が持つ魂の結晶です。
※余談ですが、「魔法少女は具現化した魂の宝石(ソウルジェム)が濁りきると魔女(怪物)化する」という「魔法少女まどか☆マギカ」の設定の元ネタは「セーラースターズ」ではないかと筆者は本気で考えています。
その最たるものがラスボスの「セーラーギャラクシア」で、彼女は争いの根源であるカオスを自身の体内に封じ込めた時に自分のスターシードがカオスに蝕まれることがないよう、体外に放出したので、スターシードが身体に宿っていません。つまりラスボスのギャラクシアこそが「最強のファージだった」という壮大なオチです。
彼女のスターシードは「希望の光」としてうさぎの前に現れ、剣に姿を変えると、ギャラクシアにとどめをさすよう伝えます。
彼女は身体がカオスに蝕まれたことで、かつて自分が救ったはずの銀河を、今度は滅ぼそうとしているわけですが、そんな彼女にセーラームーンがしたことは今までのように「銀水晶の力で倒す」ことや、「希望の光」が勧める通り剣を振るってギャラクシアを殺すことでもなく、漆黒の鎧をまとい、剣を振るう彼女に一糸まとわぬ姿となって手を差し伸べたことです。
・・・「セーラースターズ」を見た事が無い人には何を言っているか本気で訳が分からないと思いますが、本当なので是非自分の目で確かめてみてください。
武力で銀河を支配しようとしたギャラクシアに、セーラームーンは武器も服も捨てて手を差し伸べたのです。その愛はギャラクシアに届き、彼女はカオスから解放されるのでした。
「スターズ編」ではギャラクシア戦の前座として現れた「ネヘレニア」とも和解しており、やっぱり倒してはいません。
セーラームーンは「最強のセーラー戦士」ではあるけれども、それはあくまで「太陽系の中では」の話であって、銀河全体で見れば彼女はあくまで銀河中に散らばるセーラー戦士の一人に過ぎず、「最強はあくまでギャラクシア」だと語られます。銀河規模で見れば決して最強ではないセーラームーンが、完全武装した最強の敵を愛で救うからこそこの物語は美しいのです。
一方、原作およびCosmosでは「セーラームーンはギャラクシアと同等の力を持つ最強の戦士」として語られており、セーラームーンが自身と並ぶ最強の戦士だからこそギャラクシアが彼女を狙う理由となっております。それ自体は王道の展開なので悪い事ではありません。
しかし、原作およびCosmosで一番最後に語られた「セーラームーンは永遠に一番美しく輝く星だ」という言葉に、原作およびCosmosの悪いところが端的に表れています。
それは極論、「美しく輝くのはセーラームーンただ一人であればよく、他の戦士たちは彼女を輝かせるためのコマに過ぎない」という事です💧
設定として語られる世界観自体は原作の方が壮大になっています。「銀河の支配を目論んでいたギャラクシアという一個人を愛で救ったことで間接的に銀河全体を救った」というのが旧アニメ版の描写ですが、原作だとセーラームーンは「星の生まれる場所」そのものを消すか残すかの究極の二択を迫られるからです。前者を選択した場合、もう星そのものが生まれなくなるので銀河から戦いがなくなります。ただしそれは同時に「全生物の死滅」を意味するのです。後者を選択した場合は星は永遠に生まれ続けるけれども、同時にセーラー戦士は(恐らくそれ以外の人類も)未来永劫苦しい戦いを背負わなければならないことを意味します。
ナゾの幼女戦士ちびちびは前者を選択することをセーラームーンに勧めます。しかし、セーラームーンが選択したのは後者でした。
セーラームーンはほほえんでちびちびに語りかけます
「すべてがーーそれがこの宇宙なのよ。だからあなたも希望を捨てないで」
はい、ここまではいいです。
でも、この後が意味不明なんですよね。それまでセーラームーンのそばにいたちびちびの正体はセーラーコスモスで、コスモスこそが未来のセーラームーン自身なのだと語られます。え、ここで「全生物の死と引き換えに得られる平和」を選択するくらいなら、「未来永劫戦い続けるという生」の道を選んだはずのセーラームーンは、結局その事を遠い未来で悔いてここに戻ってくるの? まぁ、ここはまだ「そう決意したのに戦いがあまりにも苦しいからそのことを忘れて過去に戻ってきたのだ」と解釈できますし、実際コスモスもそんなような事を言っていたと思います。でも、「未来で後悔するならやっぱりその選択は失敗だったのでは?」という思いがよぎるんですよね。コスモスをムーンとは別人にしていれば「うさぎの愛で銀河を救う物語」として完璧だったのに、何故同一人物にしてしまったのでしょうか?
原作に足りなかった要素は、この画面に全て描かれています。つまり、うさぎが愛で銀河を救ったように、うさぎもまた仲間達から救われる必要があったのです。うさぎだけではなく、仲間たちもまた、うさぎを救うことで輝く必要がありました。
セーラームーンだけが長く苦しい戦いを背負ったり永遠に美しく輝いたりする必要はなかったのです。
そもそも論、星が生まれ続ける限り(生命が生まれ存続する限り)未来永劫戦い続けなければならないのはほぼ全生物の宿命だろうに、「うさぎひとりだけが戦い続けなければならない」というのはあまりにも視野が狭すぎではないでしょうか? 壮大な世界観を語る割りに、物語に深みが感じられないのはそういう部分に起因するのだろうと思います。
PVで味方の全S戦士画面が現れた時は「今度こそ究極の美しい物語が見られるかもしれない」と期待していました。でも残念ながらこのシーンはOPだけで本編で描かれることはありませんでした。
その事が、本当に本当に本当に残念でなりません。