映画ドラえもんのび太と空のユートピアに見る善悪二元論の危うさ
概要
映画ドラえもん「空のユートピア」は、ユートピアに憧れたのび太が空に争いの無い平和な世界「パラダピア」を見つけ、そこでドラえもん達とともに「パーフェクト小学生」になろうとするが、しだいにパラダピアの隠された陰謀に気づくという物語だ。
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パラダピアはいわば「寮付きの学校」で、最初の内はのび太も楽しい勉強のカリキュラムと優しい仲間たちに囲まれ「ここでなら僕もパーフェクトになれる!」とコンプレックスを克服したかのように感じていたのだが、何をしても全く怒らなくなったジャイアン、スネ夫に気味の悪さを覚えるようになる。
「パーフェクトになる」というのは「自分の望む完璧超人になる」という意味ではなく、「パラダピアの支配者にとって都合の良い人間になる」という意味でしかなかったのだ。
パラダピアの支配者レイ博士は「人を操る光」の研究をしており、パラダピアの正体はその試験場だったのである。
レイ博士は「のび太は昔の自分にそっくりであり、皆からバカにされていたが、自分には科学者としての才能があった。人間は戦争ばかりしているからそれをなくすために、心をなくす研究をした」と主張し、洗脳したジャイアン達をけしかけて洗脳光線が効きにくいのび太を抹殺しようとするのだが、のび太の呼びかけによってジャイアン達が自我を取り戻し、なんやかんやあってレイ博士を退ける。
日常に帰って来たのび太「パーフェクトにならなくてもいい。世界はそのままで美しいんだ」と微笑む。…しかしその直後、0点テストがママに見つかり怒られたので、「そのままの僕を愛してよー!」と、ありのままの自分で許される限度があることが一応示唆された。
自戒も含めた感想
全体的にテンポが悪く退屈になりがちなので、もう少しテンポよくサクサクと話を進めて欲しかった。
ダメ人間ののび太がパーフェクトヒューマンになれるユートピアに見えたパラダピアの正体が実は「ディストピアであった」という事が、状況描写で次第に分かるようになるのではなく、ゲストキャラの説明ゼリフであっさりネタバレするのはあまりよくないと思った。そういう脚本の方が書きやすいのは私も理解できるーーというか、多分、私もやりがちなのだが、この映画は140分もあるのだから、そういうところに尺を使って欲しかった。
さて、ここからが本題なのだが、脚本家が作品にメッセージを込めるのは良いことだと思うし、私も自分で作品を創るのならそういうものにしたいと考えている。
一方で、メッセージ性の強い作品をエンタメに昇華するのは難しいとも感じている。
何故なら物語の作り込みが下手だと「説教くさい」という印象を観客に持たれてしまうし、反対意見に対する反論を用意して物語の中でそれを描写しないと、一方的で薄っぺらい作品に見えるからである。反対意見を持つ人達から強い反感も買ってしまうこともあるだろう。
「空のユートピア」は「メッセージ性が強い」が故にエンタメとしていまひとつ面白味にかける作品になってしまっていると思う。テンポが悪くて退屈と感じたのもそのためかもしれない。
まず、レイ博士の言う「戦争のない平和な世界にするべきた」という主張や目的自体は間違いではない。そのために「他人の心を消して自分の都合の良いように操る」という手段が間違っていただけなのである。
一方でのび太の「みんなに心(=個性)があるこの世界はそのままで素晴らしいんだ」という無邪気な主張にも首肯しがたい。
レイ博士のような独裁者が皆の自我を奪い都合よく操る世界がディストピアだという理屈は理解できるのだが、一方で皆が心(=自我)を持つが故に戦争やいじめや凶悪犯罪が起こるこの社会を「そのままで素晴らしいんだ」とは私にはとても思えないし、言えない。
ではどうすれば良かったのか。
可能な限り、両者のいいとこ取りをしてバランスを保つのが、最善の策ではないかという気がする。
そもそも人間がいじめや戦争や犯罪を起こすのは「自分は正義で、逆らう相手は悪だから断罪すべき」という思想から抜け出せないからである。(戦争の場合はそこに資源の奪い合いやビジネスの都合も絡むのだが)
京アニの放火事件だって、青葉被告は「自分は京アニに作品をパクられた被害者であり、京アニは断罪すべきだ」という妄執に囚われたからこそあのような惨劇を起こしたのである。
常に敬語でのび太に気を使うジャイアンは気持ち悪いかもしれないが、一方で、のび太に乱暴していじめるジャイアンが正しいわけでもない。
つまり、「皆の心や個性は大事だが、それはあくまで他人の権利を侵害しない範囲で成立させなければならない」という事を、本作は描くべきだったのだ。
「空のユートピア」では、パラダピアをディストピアとして描きたいがためにーーあるいはのび太達がレイ博士を犯罪者として断罪するためにーーそこら辺のバランスがかけていたと思う。
のび太達はもう少しレイ博士に歩みより、お互いに相手を理解しようと努力する姿勢が描けていれば、本作はメッセージ性の完璧な作品として仕上がっていたのかもしれない。
一方で、そのような作品はエンタメとして成立し辛いのかもしれないと思う。
何故、私達観客がヒーローや「勧善懲悪」のストーリーを求めるのかといえば、現実には多くの場合、「相手を悪と断罪して正義を振りかざす」者が生き残るからである。
あるいは、縄張りの外のからやって来た侵略者(=加害者)を倒すためである。
人間が積極的に外に加害しにいく(攻撃の)場合も、外からやって来た加害者を倒す(防御の)場合も、相手に情けをかけたり歩み寄ったりしている余裕はないだろう。そんなことはせず、さっさと相手を殺した方が勝つのだ。そのために「自分の方に善があり、相手は悪で倒すべき対象」という思想が必要であり、それを強化するのが「物語」なのである。
つまり、ヒーローや「勧善懲悪のストーリー」を求めるのは人間にとって本能というか生存戦略的なものなのであり、だからこそ求める人が多く、商売としても成立しやすいのである。
善悪二元論の問題点は、仲間内の団結力を高める一方で、他人との対立を深める要因にもなりえることだ。
何故なら、本作でもレイ博士とのび太の対立として描かれていた通り、「どちらか一方の思想や主張が正しく、それに反するものは間違っている」という体で話が展開されるからである。
それは特定の思想の正当性を高め、反対意見を封殺するのに役立つ。
本作は「全体主義は悪で個人主義は善」という体裁をとっているため、個人主義者が全体主義者を断罪するための口実として使われることもあるのかもしれない。
それは少し極端な例だとしても、青葉被告が「京アニが俺の作品をパクった」という物語を作って自分の加害欲を正当化したように、学校でのいじめも戦争も犯罪も加害者は「あいつは悪い奴だから加害してよい」という物語を作って自分達の加害欲を正当化する。
私達はヒーローや勧善懲悪に憧れるし、惹かれる。しかし、一方が一方を断罪する物語は、「思想や利害が一致しない相手との対立を深め、加害欲を正当化させる要因になりえないか?」とも危惧している。
その点に関しては本作は、レイ博士を最終的に断罪するのはのび太達ではなく時空パトロールという第三者機関であるため、バランスは取れているのかもしれない。
個性を否定し、全体主義を掲げた独裁者は、「時空パトロール(警察)」という全体主義的な制度に敗れたのである。
その他の感想
あらすじの説明からは省いてしまったが、ゲストキャラのソーニャ(猫型ロボット)がかわいい。
洗脳されて優しくなるジャイアンはキモ面白いので一見の価値あり。
のび太はクライマックスで皆の洗脳を解くためにみんなの長所を言うのだが、ジャイアンが勇敢…なのはいいとして、「スネ夫が仲間思い」というのは無理があると思う。感動を演出するために無理矢理用意したセリフだとしか…。
パラダピアは分かりやすい「ディストピア」として描かれていたが、そもそも学校というのは「支配者の都合の良いように生徒を洗脳する機関」である。
学校について、この社会では広くユートピアというか青春の舞台として信じられており、学校をそのように描いた歌やフィクション作品は枚挙にいとまがないが、学校というのは「生徒を洗脳して邪魔者は容赦なく排除する」という、筆者に言わせればパラダピアと大差のない、「ユートピアと見せかけたディストピア」である。
本作が「怖い」と言われる一方で学校というディストピアをみんなが「正しい」信じ込んでいるのは、結局レイ博士的な思想に知らず知らず染まっているからである。
レイ博士のcvがまさかの中尾隆聖! レイ博士の見た目も「出る作品間違えたんじゃね?」ってくらい怖い。ジ◯リの悪役にいそうな…?
テンポの悪さや極端な対立軸は引っかかるが、ドララえもん映画の中では面白い部類に入ると思う。
散々「ヒーローや善悪二元論」を指摘しておきながら、筆者がドラえもん映画で一番好きなのは「パラレル西遊記」だ。やっぱり、エンタメには説教臭い作品より分かりやすい勧善懲悪のお話の方が向いているのだと思う。
作品にメッセージを込めるのもよいが、メッセージ性などなくても、素直に面白い作品を筆者も作れるようになりたいものである。
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