「映画大好きポンポさん」は夢追い人を救えるか

頑張っている人に「頑張って」と言うと返って追い詰めてしまうように、今まさに絶望の真っ只中にいる人に「前向きで明るいメッセージ」を送ることは、返って絶望を深める劇薬に成りかねない。

「映画大好きポンポさん」はそんな危うさも孕んだ映画だ。

映画大好きポンポさんの画像 

引用元:https://pompo-the-cinephile.com/

しかし筆者は本作のメッセージを(若干モヤッとするところはあるけど)素直に受け止めたいと思う。

注意・この記事には「映画大好きポンポさん」のネタバレが含まれます。本作を視聴した上でこの記事を読む事をおすすめします。

社会不適合者なだけではクリエイターにはなれない

映画のタイトルにもなっているキャラクター、「ポンポさん」は見た目は幼女、頭脳は大人(銀幕の申し子で、どんな映画もヒットさせる超天才プロデューサー)、某名探偵も驚きの、現実離れした超人である。

本作の主人公はもちろん彼女ーーではなく、彼女のもとで働く、死んだ魚のような目をした青年「ジーン」だ。

彼は映画オタクで、映画監督に憧れているが、自分にそれが務まるはずがないと思っていた。1年間ポンポさんの側で映画製作のアシスタントとして働いた後、頼まれた映画の15秒PVを期待通り完成させた事で、ついに監督を任される事に。

「幸福は創造の敵」だと語るポンポさんは、「目に最も輝きがないからジーンをアシスタントにした」という。彼女曰く「キラキラした青春を謳歌し、人生に満足した者はものの考え方が浅くなるため、現実逃避することで己の精神世界を深めた社会不適合者こそクリエイターにふさわしい」。

えー、まずここで指摘しておきたいのは、残念ながらクリエイターになれるか否かに「青春の有無」や社会不適合者かどうかはあまり関係がないという事だ。

何故ならポンポさんの言う事が本当なら、学生時代の大半を青春とは程遠い状態で過ごした筆者はもうとっくにクリエイターとして稼いでいるはずだし、「私(俺)は社会不適合者だから稼げない」とSNSで悩みを吐露する人はこの社会に存在しないはずだからである(^_^;)

言っては悪いが「社会不適合者=クリエイター向き」というのは、「銀幕の申し子」として満たされた人生を送って来たポンポさんの浅い考えに過ぎない。

筆者が「この映画が呪いに成りかねない」と思うのはこの様なところである。「幸福は創造の敵」には一理あるが、「不幸な経験を積んだ」からといって誰もがクリエイターになれるわけではないのだ。

映画を見た経験しかない男に映画監督は務まるのか?

「漫画を読んで漫画を描いてはダメだ」と言われている。つまり、「本当に面白い漫画を描きたければ、面白い漫画を読んでそれを再生産するだけではダメで、自分の生きた経験を描く必要がある」らしい。

これが映画製作にも当てはまるなら、友達と遊ぶこともなく映画を見る日々を送ったジーンは、現実にはただの映画オタクの域を出ず、趣味や凡作ならともかく(ニャカデミー賞を受賞する)映画監督になるほど大きな器を醸成できなかったのではないだろうか?

ジーンが初監督を務めた劇中作「MEISTER」は、「音楽の帝王」と呼ばれたものの、人間らしい感情が分からず、「アリア」という感情表現が重要な曲の前に敗れ、スランプに陥った指揮者の男ダルベールがアルプスでヤギ飼いの少女リリーと交流する事で「豊かな感情」を見つけ、「アリア」をついぞ完成させるという話である。

ダルベールとジーンには「自分には音楽or映画しかない」という点で重なる部分もあり、それが本作の重要なギミックでもあるのだが、音楽以外の経験や交流を積み「アリア」を完成させたダルベールと、映画の事しか学ばず、映画を通じてしか他者と交流しない(できない)ジーンの描写は悲しいほど乖離してしまっている。

ダルベールも音楽のために妻子を切り捨てており、ここが「映画のために全て切り捨てたジーン」とリンクする演出にしたかったのは分かるのだが、ダルベールは一度は「妻子」という「音楽仲間とは違う人間関係」も築いており、(映画仲間以外の)交友関係を持たないジーンとはスタート地点が違う。

ジーンに必要だったのは、ダルベールと同じように一度映画から離れ映画とは無関係のところで他者との交流や経験を積み、その上で「自分には本当に映画しかないのか」見極める事だったのではないだろうか。彼が映画のために全て捨て去る覚悟をするのは、その後でも良かっただろう。

そもそも彼は「全て切り捨てて映画の世界に来た」というよりは、「現実から逃げるように映画の世界に来た男」である。現実の逃げ道として映画を選んだ男が、妻子を切り捨ててまで音楽の道を選んだダルベールの物語を「夢を叶えるために切り捨てたものの重みが足りない」等と上から目線で編集作業をするのは勘違いも甚だしい。

…しかし、「ポンポさん」の上映時間は劇中作の「MEISTER」も含めて90分しかない。もしかしたら、「多彩な経験を積み、創作以外の要素で他者と交流する事ではじめて真のクリエイターになれる」という描写はダルベールに任せ、ジーンの深掘りについては諦めて切り捨てたのかもしれない。

デフォルメとリアルの描き分けが凄い

恐らく、この映画を見て「微妙」と思った人の何割かは「現実離れしたキャラクター達がトントン拍子でハッピーエンドを掴む話でリアリティがない」と思ったのではなかろうか。

「キャラクターが記号的だからダメ」と言っている人もいたが、岡田斗司夫の解説を見れば、むしろ本作は「記号的(≒漫画的)なキャラクターの登場する、リアリティの低い世界だからこそ成立する物語」なのだと解釈できる。

しかし、「ポンポさんを漫画的に描くことで作品全体のリアリティレベルを下げている。本作は真面目に作ったポプテピピック、またはおそ松さんだと思え」というのは「オタキング」の異名を持つ岡田斗司夫だからこそできる解釈であって、多くの人は(筆者自身含めて)「これはしょせんポンポさんのようなリアリティの低いキャラが存在する世界の話だから、あくまで絵空事と割り切って見るべき」なんていうのは言われない限り難しいだろう(^_^;)

ただ、岡田斗司夫の力を借りずとも筆者が思ったのは、ジーンやナタリーといった漫画的デフォルメキャラがいる一方、ダルベールを演じたマーティン等一部のキャラはハリウッド映画の世界からそのまま飛び出して来たようなリアルな顔立ちをしており、「MEISTER」に実写映画の様な臨場感を与え、「アニメの世界で実写映画を描く」という無茶を成立させている点は素直に凄い。

後述するアランの務める銀行員たちもリアルな顔立ちで描かれており、シビアな現実(融資検討会議)の演出に成功していた。

結局恋愛ものが強いのか…

ポンポさんの「映画は極論、女優を魅力的に撮れればそれでOK」というポンポさんの持論を拡大して、岡田斗司夫は「映画は登場人物の恋愛さえ描ければOK」と言っていた。

筆者は映画の終盤でナタリーがジーンに献身的に尽くしたからといって、彼の言う通りそれが本当に恋愛感情だったのかは疑問の余地があるとは思うが、筆者があまり好きではない「水の都の護り神」がアニポケ映画の中では一番人気なのは、本作がラティアス(女優)を魅力的に描いていて、かつ「主人公とのなんちゃって三角関係」だったからなのだろう。

ジーンとアランは平尾監督の分身

本作には原作があり、映画には「アラン」という映画オリジナルキャラクターが登場する。

アランは、ジーンの元同級生で、今は銀行員をしているが自身に夢はなく、鬱屈した日々を送っていた。

そんな中、自身の夢を叶えようと奮闘するジーンと再開し、夢の無い自分とやりがいの無い今の職場にうんざりし、仕事を辞めようとするが、ジーンが映画の完成度を高めるために追加撮影をしたいのだが資金繰りに困っていることを知ると仕事を辞めるのをやめ、彼のために銀行の役員を説得する賭けに出る。

銀行の支店長の心を動かした事でアランは役員の説得に成功するのだが、この描写について「有り得ない」と批評する人もいる。

だが上述したように、本作には「漫画的デフォルメキャラ」と「実写的な顔立ちのキャラ」がいる。

アランは前者である。

つまり「彼の起こした奇跡はあくまで漫画的で現実に起こる可能性は低い事象である」と解釈するのが妥当なのだろう。

ただし、役員達や支店長の顔を実写的に描く事で、現実にはほぼ有り得ない奇跡にリアリティをもたせているのが本作の演出のうまいころである。

役員達を説得するため、アランは頭を下げてお願いする「夢の無い人でも夢を持てる映画を彼らは作ろうとしている。そんな夢を持つ人達をどうか応援してあげて欲しい」

そんな彼に役員は言う「夢は金を生まない」

これが私や多くの夢を抱く人が直面する現実である。

だが、彼のプレゼンにより支店長の心を動かし、ニャリウッド銀行は「夢を追う人を応援する銀行」に生まれ変わった。

「夢を追う人達を応援している」し、「夢を追う人達を応援して欲しい」という本作のメッセージを愚直なほどストレートに描いた場面だ。

ジーンが「追加撮影をしたい」とポンポさんに申し出たのも原作にはない映画オリジナル展開だそうで、ポンポさんの書いた脚本を自分の映画にするために新たな脚本を盛り込みたいジーンと、他人が描いた漫画を自分の映画にするためにオリジナル展開を盛り込んだ平尾監督の姿が重なるというメタ構造になっているのが面白い。

完成した映画のどこが一番気に入っているかと問われてジーンは「上映時間が90分というところ」だと答えるのだが、そのセリフを最後にこの映画もまた幕を閉じるのである。

「映画の尺は90分が良い」というポンポさんの意見には私も同意するところであり、60分だと短くて話の規模が小さくなりがちだし、120分だと長過ぎて飽きるし疲れる。

まとめ

とにかく90分しかないのに内容がてんこ盛りで、感想を書くのが良い意味でとても大変だった。

映画前半では「都合の良い女」という印象でしかなかったナイスバディの女優も後半にはエゴのようなものをのぞかせてリアリティが感じられたし、ジーンが映画編集する画面の演出は面白い。

本作の中ではダルベールを演じたマーティンが筆者の好きなキャラだ。本人の性格は明るく、女優にナンパするほどチャラいのに、劇の中ではヤツレた老人を演じるというギャップがいかにもベテラン俳優っぽいと思う。大塚明夫の声も彼に恐いほどハマっている。

書いた批評がところどころブーメランとしてぶっ刺さり、精神的には顔面血まみれになっているところもあるが、本作は映画製作の楽しさと大変さを非凡な演出でコミカルに描いた、誰でも一度は見て欲しい傑作だと思う。

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