プリキュアへのアンチテーゼ!?マギレコ3期考察と感想
愛と勇気は世界を救わない
「延期に継ぐ延期で2年もストーリーを引っ張っておきながら、一体何がしたかったんだこのアニメは‼」
マギアレコードFinal seasonを見て、アプリを未プレイの方はそう思ったに違いない。アプリをプレイ済みの私でさえそう思ったのだから間違いない(^^;)
作中でねむが
「ぼくたちは無邪気にも信じていたんだ。この物語のハッピーエンドを」
と語りますが、「無邪気にハッピーエンド信じていた」のはアプリ勢も同じだと思うんですよね。何故ならアプリではハッピーエンドが描かれており、アニメ版も多少違う展開にしつつ、最後はアプリと同じようにういや他の魔法少女たちが救われる展開になるのだろうと(私自身含め)多くの人が思っていたことでしょう。
ところがどっこい、アニメで描かれたのは誰一人として救われない「バッドエンド」でした。どうしてこうなったのかは「ハッピーエンドが見たければアプリをプレイしろ」という商業上の理由が最も大きいだろうとは思いますが、もう一つ思ったのは「もしかしたら本作が描きたかったのはプリキュアへのアンチテーゼなのかもしれない」という事です。
何故ならアニメ版のマギレコ(以下アニレコ)は、私が「プリキュアシリーズ」に対して感じていた違和感を洗いざらい描き出してくれていたと思うのです。
プリキュアシリーズは「女児をカモにして儲けたい」という商業上の都合を最優先しているのか知りませんが、プリキュアやプリキュアの戦いを美化し過ぎだと思うんですよね。
バトルヒロインアニメの金字塔である「セーラームーン」では「戦いは辛く苦しいもの」という前提があり、うさぎやはるかが「セーラー戦士として戦う宿命」を拒む姿や、かすり傷程度ではあれど血を流す描写がごくわずかにはあったり、敵からも「カボチャ」と物凄く軽微ではあれど悪口を言われていたりするんですよね。そして彼女たちの戦いは一般人から認知され賛美される様子は基本的には無く、うさぎたちも敵に正体がバレないよう気を付けていますし、正体がバレた暁には敵に命を狙われていました。
…ところがプリキュアは全然そういう描写がないんですよね。妖精や一般人はおろか敵組織からも「伝説の戦士」と言われてもてはやされ、敵の目の前でも平気で変身してノリノリで戦います。
戦闘シーンも血を流す描写はありません。これは「ダメージは叩きつけられるなどで表現している」と制作スタッフが公言していたので間違いないと思います。なるほど、傷つき血を流しながら戦う女の子など、女児やその親には安心して見せられないからその配慮ということなのでしょうが、悪い見方をすると「ビジネスを優先するあまり戦いの辛さを意図的に排除している」とも言えます。
敵もプリキュアの正体が分かっているのに襲おうとしなかったり、悪口を言うどころか「伝説の戦士」と呼んでもてはやしたりと「八百長してんのか」と言いたくなるくらい、プリキュアに対して甘すぎます。
また、私がプリキュアに対して感じる疑問は「正しいのは私、間違っているのはあなた」という姿勢であり、(結果的に敵と和解したことはあれど)「敵と一度も同じ土俵に立とうとした事がないのではないか」という事です。まどマギでは「魔法少女の宿敵」である「魔女」は魔法少女の成れの果てであり、だからこそ救うべき存在としても描かれていますし、マギレコはもっと踏み込んで「魔法少女同士の戦い」が物語の大きなテーマです。セーラームーンでも第5部の敵はうさぎたちと同じセーラー戦士であり、だからこそうさぎは敵の大将であるセーラーギャラクシアに歩み寄ろうとする姿が描かれています。
私は子供のころ「セーラームーン」を見て育ちましたが、「自分がセーラー戦士になれる」とは思っていませんでしたし、公式も「女の子は誰でもセーラー戦士になれる」とは言いませんでした。何故ならその戦いは辛く苦しいものであったからです。
ところがプリキュアは公式自ら「女の子は誰でもプリキュアになれる」と真っ赤なウソを公言し、「プリキュアやその戦いは良いものであり、女児が憧れるべきもの」という風にしか描かない姿勢に、キュウべぇのような「巧妙なズルさ」を感じるんですよね。
何故なら女児がプリキュアに憧れたところそれで得をするのはプリキュアビジネスで儲ける大人であり、女児自身ではないからです。
※私はプリキュアシリーズについては一部を少し見た程度なので誤解している可能性はありますし、プリキュアを見て「面白い」と思ったこともあります。ただ、「プリキュアの描く正義は信じていない」という話です。
アニレコに話を戻すと、キュウべェと契約すれば誰でも「魔法少女」になれます。
しかし、「叶えた願い」の大きさに対して自身の持つ因果が足りないと、ソウルジェムが一瞬でにごって魔女化してしまいます。アニレコでは説明がはしょられていましたが、灯花達がキュウべぇが持つ機能を1人に集約するのではなく、3人で分割して得ようとしたのも、ういが魔法少女になった直後に魔女化してしまったのもこの為です。
アプリだとねむの「物語を具現化する魔法」でういと宇宙の因果を切り離すことでういの魔女化を半ば食い止めたのですが、その代償にねむ自身もういの存在を忘却してしまい、半魔女として現世にとどまったういに「エンブリオ・イヴ」と名付け、完全な魔女にすべく育てていました。
その最終的な餌となるはずだったのがワルプルギスでしたが、いろはがイブに施された宝石の中で眠り続けるういの体に触れたことでういの因果が宇宙に戻り、灯花&ねむも「本来の目的」を思い出す――というのがアプリ版の筋書きです。
アプリ版のその後は読者様自身の目で見て頂くとして、アニレコで特筆すべきはオリジナルキャラの黒江です。彼女の描き方は見事でした。
原作の「まどマギ」は名作ではありますが、「現実にはあまりいないような理想の少女たちの物語」でした。さやかは割と等身大であったとは思いますが、親友のために命がけで戦うほむらも、全ての魔法少女を救うために自身の存在全てを捧げたまどかも、「アニメの中にしか存在しない(強く理想の)少女像である」と思うんですよね。
これはマギレコにもあてはまることで、本作に登場する多くの魔法少女たちは現実にはあまりいなさそうな「理想の少女たち」だと思います。
現実の少女の多くはまどかにもいろはにも勿論プリキュアにもなれない。ではどうなるのか、というのを(全部ではないけど一部)示したのが「黒江」だと思います。
黒江は「強く正しい魔法少女」に憧れていましたが、その実自分より弱い魔法少女を見捨てる事で生き延びたのであり、いろはの説得も逆効果となり、最終的には自ら魔女となる道を選びました。
現実の少女は「強さや優しさ」に憧れていてもそう簡単に強くなるれるわけではありません。学校で友達が目の前で同級生から嫌がらせを受けても見てみぬふりをしたり、むしろ積極的に弱い者いじめをして自分の強さを誇示したりします(^^;)。「友達思いの強く優しい少女」は現実にはなかなか存在しないのです。
みふゆは「私は弱いからこそ弱った心に寄り添うことができる」とドッペルに乗っ取られそうになった魔法少女たちを救う選択をしましたが、それは彼女が十代後半だからギリギリできたのであって、十代前半の黒江は理想に届かない、弱く卑屈な自分をただ「呪う」ことしかできませんでした。この二人の対比は見事でした。
さやかや黒江が「相手の幸せ」を願った戦いの果てに魔女化したように、みふゆとももこもドッペルに苦しめられる魔法少女たちを救おうとした結果、ソウルジェムが割れて死んでしまいます。プリキュアが描いていない「戦いのデメリット」――他人を救おうとすればその分、自分自身が傷を負うし、時には善意が相手を追い詰めてしまう事もある、ということをちゃんと描いたという点はアニレコはすごく面白かったと思います。
…ただ、マギレコにも脚本上の無理だと思うところがいくつかあって、それは、こう言ったら酷かもしれませんが、いろはが灯花やねむのことも「妹」だと思っているのなら、ういだけではなくて「うい、灯花ちゃん、ねむちゃんの病気を治して!」とキュウべぇに願うのが筋ではないかと思います。ただ、ういだけならともかく、後者二人の病気を治して平気なほどいろはに因果があるとは思えないので、そう願ったらいろはのジェムは一瞬でにごりきって魔女化していたとは思いますが、灯花とねむも放っておいたら死んでしまうと知っていたはずなのに「ういの病気を治して!」としか祈らなかったいろはには少し疑問があります。灯花とねむはいろはの事を少し買い被り過ぎではないでしょうか…?
これはアニレコスタッフも何か思うところがあったようで、ういが病気で苦しむ描写はありましたが、灯花とねむは「本当に病気なの?」とツッコミを入れたくなる位元気でした(^^;)
ちなみにアプリ版だと、灯花&ねむが生存しているのは彼女たちが魔法少女になることで病気を克服したマギレコ時空のみで、他の時空(ほむらが原作で時間遡行を繰り返していた全ての世界)では病死したことになっています。
そもそも論、「マギレコ時空は一度限りの完全なイレギュラー」というのがアプリ版の設定だったのに、アニメでは半ばそれを捻じ曲げるような形でバッドエンドを描き、「ほむらが時間遡行を繰り返す中で辿り着いた世界の一つ」という位置づけにしてしまったのは残念に思います。(まぁアニメ化が決まった時点でマギレコ時空の唯一性は崩れ去ったと考えるべきなのでしょうが)。
アプリ版は「ゲームとしてサービスを続けなければならない」という商業上の都合でハッピーエンドにしたけど、アニメではその制約がないから(ある意味まどマギシリーズらしい)バッドエンドにしたんじゃないかと疑ってしまいますね(^^;)
いろはは最終的にイヴと同化したアリナを倒しこそすれ、つにういを取り戻すことができませんでした。「辛く苦しい戦いの果てに彼女が得たものは何もない」と言えるでしょう。また、「誰も知らない私達の物語」それこそがマギアレコードである、と最後には描かれましたが、大きな都市が一つ壊滅するほどの騒ぎを起こして「誰も知らない」と言い張るのはちょっと無理があると思いますが、これも「戦いが一般人に認知され、称賛されるプリキュア」に対する反論なのだ、ととらえることができるかもしれません。
つまり、少女の戦いというのは多くの場合「誰かに認知されたり称賛されたりするものではなく、とても個人的で孤独なものである」ということです。
そんなワケで「アニレコ」は「いろはの戦いの物語」としてはモヤモヤする結末でしたが、プリキュアのアンチテーゼとして見ればむしろ面白い、という話でした。
…しかしまぁそんなことより、もっと重要なのは、本作には「社会風刺」ともとれる描写があったことです。
コロナ禍で困窮する人が出て給付金の話が出た際「一律ではなく、本当に困っている人に手厚く保証しよう」という声も一部であがりました。それは一見正論のように聞こえますが、その実それで救われるのは「本当に困っている人」という政治家(=強者)が決めた(ほとんど無理難題に近い)条件に当てはまった一部の人だけであり、多くの本当に困っている人は救えません。つまり、本当の弱者というのは社会の影に埋もれてしまい認知されにくいという事です。
同じ様に、「魔女化の運命の立ち向かう」ために「みんなで手をとりあえばー」といういろはの呼びかけにねむが「おねぇさん、手を取り合えるのは表舞台にあがってこられた人だけなんだ」と答えます。
ねむのいう「表舞台」とは「『本当に困っている人』という社会的強者が決めた定義」の事を指しているのではないでしょうか? そして、そこまで這い上がってこられなかった人は「存在しないもの」として見てみぬふりをされます。
ねむやたち灯花たちマギウスは「表舞台に上がってこられない、弱い魔法少女たちを救おうと一人一人声を聞いていた」そうですが、それこそが「本来あるべき政治や社会の姿である」と本作は言いたかったのかもしれません。
※記事の画像はすべてAmazonプライムより引用。
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